arakabu-kamenoteのブログ

あちこちガタがきだしたオヤジの日々の記録です。

長崎原爆の日

私の故郷は、長崎市である。とは言っても近年の市町村合併で、長崎市となった。
長崎県は島の多い県で、私が育ったのも周囲4キロしかない小さな島である。南東の方向に、長崎港の入口近くにある造船所の赤く塗られたクレーンを微かに望むことが出来る。
そんな環境で育った私、8月9日は忘れてはならない日である。子供の頃は、毎年夏休みの登校日であった。
校庭で、長崎原爆のお話があり、原爆投下の11時2分には、黙とうをした。
子供の頃は、全国の小中学校が登校日で、同じように黙とうしていると思い込んでいた。
今と違って、交通機関もあまり発達してなく、まして島である。県外の人との接触も無い。
よく覚えていないが、長崎原爆の日が登校日は長崎県内だけであったと知ったのは、かなり経ってからだった。
直接の体験者では無いが、長崎出身者として今日は原爆について私なりの思いを書きたいと思う。

私のおふくろは、この長崎の島に生まれた時から住んでいた。勿論私が生まれる前の話であるので、真意は分からないが、75年前の8月9日、島から南東方向に『きのこ雲』を見たそうである。
当時は造船所のクレーンなんて無くても、長崎に大変な事が起きたと分かったそうだ。
私の親戚にも原爆の被爆者が居た。おふくろをはじめ多くの原爆を知る人が他界してしまった今、原爆の話を聞く機会も少なくなった。

私自身も、学校の登校日に先生方から話を聞くぐらいで、特別な感情は無かった。
ある程度の事は知っている、そんな思いが有ったのか、四国出身の孝子が、私の実家に帰省した際
原爆資料館見たい」と言い出し、私もまだ見た事がないのに、気づいた。
地元では、テレビで報道されたりして、代表的な展示物は知っていた。
しかし、現物はまだ見た事がない。
「行くか」と2つ返事で同意

テレビで見るのと、実際にそこに立って見るのでは大違い。
昭和20年8月9日の11時02分の世界にタイムスリップしたかのようだ。
当時の人々の生活、そこに有った生活用品、着ていた服、持っていたもの、あの瞬間に一瞬にして失われたのだ。

展示物の、割れずに一瞬にして熱線で溶けた瓶、ほとんどが炭化した服、服が燃え尽きずに残っているのは、着ていた人の体液や血液が付着したからに違いない。
あの一瞬で多くの人が亡くなったり、今なお残る後遺症を負って苦しんでいる人もいる。
登校日に先生から聞いた話では、原爆の熱線で壁に影だけを残し、その人が生きていた痕跡すら残さずに天に召された人もいたそうだ。
私の時代でさえ忘れかけている懐メロの歌詞には、台所で昼の支度をしていたはずだろう奥さんが、あの一瞬、消え失せて首にかけていたロザリオだけが下に落ちている、ここで一生を終えた証だ。
そんな内容の歌詞が有った。
残酷を通り越して、言葉にもならない。

長崎に育ったものとして
長崎が全世界最後の被爆地であり、2度と核兵器が使われることが無いように、強く強く訴えたい。
どの国の、どの民族も、一人は一人、かけがえの無い命である。

核抑止力なんて言っているが、所詮は大昔の戦艦外交と同じ、脅しの原理に基づいている。
そろそろ悲劇の繰り返しに幕を下ろし、真剣に子供たちの未来の事を考えていくべきだ。

書きながら、当時の映像が脳裏に浮かび目頭があつくなる。
この悲劇を2度と繰り返してはならない。