arakabu-kamenoteのブログ

あちこちガタがきだしたオヤジの日々の記録です。

二日の朝風呂

三が日も過ぎようとしている。朝8時から箱根駅伝を昼の2時過ぎまで見ていた。その後は何のすることもなく、つい先ほどまでお昼寝タイムで有った。
正月も昔とはすっかりさま変わりした。特に今年はコロナのせいで小旅行にも行けないし、初詣も行ってない。元々、神も仏もあまり信じない孝子と私である。正月の初詣やお盆のお墓参りにはあまり意味が無いと思っているのだが、それでも世の中の習慣には時々は従う。
昨日は、スマホに1月2日の思い出として、熱田神宮の初詣の写真が私の了解もなく勝手に表示された。日付は2019年1月2日となっている。そういえば二年前、通勤ラッシュなみに込み合う電車に乗り熱田神宮へ初詣に出かけた事を思い出した。
信仰心の薄い私たちは、どちらかと言うと境内の出店や、周辺の食事処が目的で有ったのだが、何を食べたのか一向に思い出さない。只、大きな特設のさい銭箱に百円玉を前の人の頭越しに放り投げた事は覚えている。
「いくら投げた」孝子が聞くから
「百円」と答えると
「馬鹿だねぇ 百円ぐらいではご利益ないよ」と孝子
「もっとしたのか」と聞くと
「私は10円」と孝子
「神様だって、大勢の人に願い事されて困ってるよ、所詮は神社の金儲け」と付け加えた。
いかにも孝子らしい、自分の親の墓参りの時も手を合わせながら
「父ちゃんロトあててよね」と祈っている。
それでも、食べた事は忘れても、賽銭の事は覚えていた、信仰心が薄くても私はたいしたものである。何時かはご利益が有るはずである。
只、この歳になるとご利益よりも私の命の灯が消えるのが先になる可能性も有る。

そんな事を考えながら時計の針をもっともっと巻き戻してみた。
私が子供のころ、長崎の炭鉱の島に住んでいたのだが、そこでの正月を薄れかけた記憶で断片的に思い出した。
土地土地で風習は違うが、正月二日は朝風呂に入る風習が有った。
炭鉱の島には、自宅には風呂が無かった。自宅と言っても炭鉱の社宅である。
共同浴場が、二箇所あり、近くに浴場に洗面用具や着替えをもって通っていた。炭鉱の施設で有るので、一般の銭湯のように金は取らない。
私が利用していた浴場は、公園の一角に有り入り口が男湯と女湯に分かれていて、かなり大きな平屋建てで有った事を覚えている。
もう一カ所の浴場は8階建ての社宅の一階に広い浴場が作られていた。

記憶が定かでは無いのだが、夕方4時ぐらいから8時ぐらいまでが利用可能時間だったと思う。普通に言う営業時間のようなものである。
更衣室は何段かの木製の棚を正方形になるように仕切り板をつけたもので、今の日帰り温泉のコインロッカーの扉が無いよう状態を想像してもらうと分かりやすいかも知れない。
扉が無くても貴重品などを持ってくる人もいないし、みんな顔見知り、盗難の被害など無かった。
浴室は、洗い場と大きなコンクリート造りの浴槽が一つと、その半分ぐらいの浴槽が有った。小さい方の浴槽は塩湯で、海水を使用していた。
湯を沸かすのは、蒸気で、蒸気のパイプが湯船の中に直接入っていた。パイプ周辺は火傷しないように囲いがあり、パイプには竹の覆いが取り付けられていて、誤って触っても火傷する事は無かった。
湯加減は、利用者が上記パイプのバルブと、蒸気パイプと並んでいた水パイプのバルブを開け閉めして調整していた。
何人もの人が利用するので、熱い湯が好きな人がバルブ調整すると、他の人が入れないぐらい熱くすることも有ったが、そこは皆顔見知り、
「もう少し蒸気絞ってよ」と声をかけていた。
「俺ちょうど良いけど、熱いか?」
「当たり前だ、皆熱いよ」等と会話し、
「お前、よく耐えられるな」と皆で大笑いし、和気あいあいの雰囲気であった。

そんな共同浴場が正月の二日のは、午前中のみ開いていた。
元旦は風呂に入らない、二日は朝風呂と言うのがこの地方の決まり事であった。
そんな訳で、共同浴場も正月の休み期間も、二日の午前中は利用する事が出来た。風呂ギライな人もこの日は風呂に入りに来て、利用時間も平日の夕方より短かったので、大賑わいで裸の年始挨拶が共同浴場の中で行われていたことを、子供心に覚えている。
孝子にこの話をすると、孝子の田舎徳島には二日の朝風呂の風習は無かったようだ。

この共同浴場が有った公園だが、年末には餅つきの業者が来ていた。
狭い社宅では正月用の餅つきは出来ない。各家庭では、もち米を公園に来ているこの業者に持っていて餅つきを依頼していたと記憶している。
公園の餅つき業者の一角では、もち米を蒸す蒸気の湯気が立ち上り、餅つき機の機械音が響いていて、正月が近いのを実感していた。
木ねと臼で餅つきをするこの時代、餅つきの機械は珍しかったが、どのような物だったかよく思い出せない。
大きな輪っかにベルトが掛かって回転しているようだったが、動力源は思い出せない。
今、考えるとあの音からして発動機のような物だったのかも。
回転運動を往復運動に変えて、餅つきをしていたのかもと勝手に想像している。
そして運動会で使うテントと同じようなテントの中では、『もろぶた』と呼ばれていた木の箱に流し込んだ餅を、おばちゃんたちが、ちぎって丸めていた。
今思えば、この光景が正月前の風物詩だったのかもしれない。

そんな訳で、私は今でも正月二日は風呂に入る。さすがに朝風呂とはいかないが、昨日は午後3時頃には風呂に入った。
あの頃に比べ、今は各家庭に風呂が有り、便利で快適な生活が出来るようになったが、このコロナ禍で「ステイホーム」「お家で静かにお正月」と言われても、そのホームすら失った人たちがいる。
小池東京都知事が「5つの小」の付け足しみたいに言っていた、医療関係者に対する「心配り」。
医療関係者はもとより周りの人への「心配り」こそ一番大切だと私は思っている。決して付け足しではない。
心配りが有れば誰に言われなくてもマスクもするし、生活に困っている人にも気づかいをする。
コロナとの共存とは、誰も正解が出せないが、一人一人の心の気遣い、心配りに有るのではないだろうか。