arakabu-kamenoteのブログ

あちこちガタがきだしたオヤジの日々の記録です。

苺傷害未遂事件

昔むかし、樹木希林郷ひろみが『林檎殺人事件』という歌をヒットさせた。

「あんたも古いねぇ」と言われそうだが?

そうなんです、1952年生まれの70が目の前に迫っているオヤジなんです。

忘れかけた歌が私の脳裏に!

そんな事件が我が家で発生!


プロローグ

4月25日の夜、夕食のテーブルに豚肉と玉葱の炒め物をメインに何時もと同じ様な、夕食が並んでいた。

孝子には、ワインが並び、私は土鍋で炊きたてのご飯が添えられている。

孝子は、ダイエットでご飯抜き。病気持ちの私は、アルコールは厳禁。

食卓に並ぶ皿の違いはアルコールとご飯の違いだけ。

ところが、昨夜は私だけ苺がデザート用の薄ピンクのガラスの小鉢に盛ってあった。


幕開け

「いただきます」と互いに声をかけて、夕食開始である。

「最近塩分摂りすぎかなと思い、久々に血圧測ってみたよ」とご飯を口に入れながら私が言った。

「どうだった」と孝子

「うん、180近くあったから、何度か測り直したよ」

「なんで、ちょっと前は死体みたいに血圧下がっていたじゃん」


回想

確かに、そうである。

以前は血圧がちょっと高めで、10年ぐらい前から、毎朝降圧剤を服用している。

ところが、胃がん肝細胞癌と癌のオンパレードになってからは、手術の影響なのか、嘘みたいに血圧が下がり、100をきることも多かった。

そうなってからは、毎朝の血圧測定もサボリぎみで、最近はすっかり血圧測定を忘れていた。

ところが、ここ1,2年、孝子の料理の味付けが以前より濃くなったように感じていた。

「今日の味噌汁塩辛いよ」と私が言うと

「普通だよ」と孝子

「歳をとると味付けが濃くなるとテレビで言ってたよ」

「おまはん、シバいたろか」

年上女房の孝子に歳のことを言うのは厳禁であった。

「お、こわ」とからかい気味に私は、一言

嫌悪に思えるが、我が家では普通の会話である。そんなバカ話をしながら食事をとる日も増えていた。

私が薄口になったのかもしれないと思っていたのだが、それにしても辛く感じる。

そんな訳で、久しぶりに血圧測定。

『お! 180 酒は底なし、タバコは1日2箱の50代前半の値、若返ったか』

なんて馬鹿げた心のつぶやき。

それにしても?

再測定、少し下がるが、あまり大差無しであった。

やっぱり塩分の取り過ぎかなと気付いたのが夕食の少し前であった。


夕食にて

「血圧も脈拍数も死体みたいに下がってたんだけど」と私

孝子の方は元来低血圧で、以前私は孝子を死体扱いしていた。

ところがここ数年逆転、私が死体になっていた。

『勝った』と思っていた。

「直ぐに忘れて、血圧毎日測らないからよ」と孝子

「やっぱり最近塩分多めだったんだ」

と言うと

「辛いと思ったら食べなきゃいいのよ、だいたい最近食べすぎよ」

確かにその通りである、胃がんで胃は半分しかないのに、普通に食べて、食べたあとになって気分が悪くなる日々が続いていた。

孝子からは

「懲りないやっちゃ」とからかわれている。

「酢タマネギあんたも食べな、血圧にもいいよ」

最近孝子はダイエットで酢タマネギを毎食食べている。

以前の酢キャベツは人間が食べる物では無かったのだが、その事に孝子もやっと気づき、酢タマネギに変えたのである。

私も味見させられたのだが、酢タマネギは一応口にできる味である。

最近はネットで酸っぱくない酢を購入し改善を図っているようだ。

そんなこんなで又孝子のダイエット食にお付き合いする事になりそうだ。

直ぐに食卓に酢タマネギ入ったガラス製の蓋付き瓶が置かれた。

「ところで、苺俺だけ」

「私3時に食べすぎて入らないの、愛情・愛情」

孝子の愛情は軽い・軽いと心で思ったが、決して口には出さない。

食事が終わり、デザートの苺になったが、いつもの通り食べ過ぎた。

折角の苺、全然手を付けないのも悪いと思い、一つだけ口にした。

芯の付近が一寸だけ青臭い味がした。

「一寸青臭いよ、苺の額の部分よく取らんかった。ケチだから」

「ちゃんと取ったよ、気のせい・気のせい」

「食べてみぃ」

「私も入らないよ、ここに置いとくから何時でも食べてよ」
と一言、

近くのスパーがメガドンキーに変わってからは食料品の味がイマイチかな?

苺自体もあまり甘くないのかもと思いつつ、夕食タイム終了。


事件勃発

食卓のこの苺、次の日の昼食までテーブルの上に置かれていた。

次の日の昼食後、いつまでも置きっぱなしでは悪くなると思い、
私の胃の中に片付ける事にした。

最後の一個になった頃
草の青臭さと思っていたこの味、ひょっとしてカビ。

「孝子、食べてみ」と最後の一個を孝子に渡した。

一口口にした孝子が

「これカビだよ。スグ分からんか」と

「苺ってカビるんか?ドンキーで買った?」

「農協よ」と孝子

『メガドンキー様思い込みで決めつけてごめんなさい』と心のなかでお詫びした。

「昨夜から調子が悪いのはそれでか」

昨夜からお腹の調子が何時もの食べ過ぎと少し違うなと思っていた。

ここ数日便秘気味で出るものが出ないからかと思っていたのだが、今朝やっと出た。

おかげで気分爽快になっている。

普通だったら食あたりで下痢していたのかもしれない。しつこい便秘だったので幸いしたのだ。

又、その苺を今度は数個食べてしまった。
そう思っただけで、気分が悪くなった。

慌ててトイレに駆け込む、又出た。でも下痢ではない。

便秘の解消になり、不幸中の幸いである。

「愛情・愛情で私だけに出される物には注意しないと」と私が独り言みたいに言うと、普段は大声も聞こえないことのある孝子が

「それどういう意味よ、ケリ入れたろか」

くわばら、くわばら

カビも色々、たまたま善良なカビだったのだろう。

傷害未遂で終わった。

孝子の愛情が私の便秘を治したのかもしれない。

感謝!

池島発電所

今月は、3ヶ月に一回の肝細胞癌の検査月であった。
4日に、血液検査の為の採血と、造影剤CTを行っった。その検査結果が、11日の消化器内科の診察時に告げられた。
血液検査の癌マーカーの一つ『CED』の値が上限の5.0を超えて6.0に上がっていたが、CT画像からは、前回確認された昨年9月の手術の影響と思われる肝臓の一部の変色も小さくなっていて、新たな癌の発生も確認されなかった。
今回上限を超えた癌マーカーの前回(12月)の値は3.8で、何らかの兆しである可能性もあるが、
「とりあえず様子を見ましょう」と主治医
ギリギリセーフー、という感じ。
次回の検査が5月の末、チョット不安は残るが、なるようにしかならない。
『まな板の上の鯉』である。

診察の日は、ちょうど『3.11』
10年前のこの日に、なんの前触れもなく旅立つことになった方々のことを思うと、私は幸せものだ。
昨夜はテレビで福島原発の映画があっり、それを見て、もう20年以上昔になる、池島発電所に勤めていた時の事を思い出した。

池島は、長崎県西彼杵半島の沖に浮かぶ炭鉱の島であった。
その炭鉱の微粉炭専焼の自家用発電所に勤務していた。
出力は9500KVAの小さな発電所であるが、発電に用いた蒸気の排熱で海水淡水化装置を運転していた。
淡水化装置は、多段フラッシュ方という方法で一日2650トンの真水を海水から作っていた。
この水が島民(主に炭鉱の社宅の人々)の生活用水であった。

私が炭鉱を去る直前は、池島発電所の3交代の運転班長をしていた。
炭鉱は九州電力から海底ケーブルで送られる電気と自家用発電所の電気を使用して操業していた。

池島発電所は海底ケーブルで九州電力とつながって、電気的用語で言うと並列運転していた。

発電所の運転員は5名で、2名が中操(中央操作室)担当で、残りの3名が
現場巡回にあたっていた。
全員が、全ての作業が出来るように、毎日担当箇所を交代していた。

その運転班が3班あり、交替勤務をしていた。
平常時は、淡水化装置の塩分濃度の僅かな上昇などの微細な異常に対応する位で、ほとんど自動運転であるので、監視のみの日々である。

ただ、悪天候等で、電気的トラブルがあると、5名では、手に余る事も合った。

その最たるものは、全停電である。
九州電力からの電気も止まり、発電所も停止状態になる。
主たる原因は、電力会社側の事故に池島発電所がまきこまれる為に起こる。

電力会社側も、池島発電所側も、お互いの事故が影響しないように早急に検出して、電力連携を遮断する。
その時、池島発電所は、単独運転となり、池島内の全電力を負う事になる。

そのままでは、池島発電所は、発電能力を大幅に超え、過負荷で止まってしまう。
そのため、重要でない箇所を即座に停電させて、発電量と使用量のバランスをとる。
そこまでは、だいたい対応に成功するのだが、今度は使用量が下がりすぎて、発電所の出力を急激に絞り込まなくてはいけない。

その対応に失敗して、発電機が加速しすぎてトリップしたり、加速しないように蒸気を絞りすぎて、ボイラーの蒸気圧が上がり、ボイラー側が安全装置により停止してしまい、発電所が停止。
島中が停電してしまう。

発電所も内部電源喪失状態になるので、早急に九州電力からの受電操作を試みる。
大抵は電力会社からの受電が成功し、その後、発電所を起動する操作に入る。

万が一、九州電力からの受電に失敗した場合は、ディーゼル発電機を運転し、発電所所内電源を確保して、池島発電所を起動する。
発電所の起動は、5名では荷が重いのだが、停電と同時に社宅にいた他班の運転員が、駆けつけてくる。

中央操作室では、重故障のベルや、軽故障のベルが鳴り響き、まるで映画のような状態になるが、皆冷静に対応して事故時の対応に当たっていた。

地震で、思い出されるのは、阪神淡路大震災の時だ。
あの時は、夜勤で、明け方、私には常識から考えられない異常が出た。
『周波数高』である。
簡単に言うと、発電機の回転が速くなったのである。

池島発電所だけの単独運転では有り得ることだが、九州電力と連携運転中は考えられない。
九州電力佐世保制御所に直通回線で問い合わせる。
「九州管内全域周波数高で調査中です」
との返事、受話器を置くと、直ぐに再度電話が
「本州側の異常ので、給電指令所で、本州との連携線を切るかどうか検討中」
とのことであった。

阪神淡路大震災のときは、神戸の大電力消費都市が、壊滅的被害を受け、発電量が使用量を上回り連携している電力会社の発電機全部が加速してしまったのである。
休息室で夜食中だった班員が、
「神戸が大変な事になっている、テレビ見て」と教えに来て、やっと状況が把握できた。

東日本大震災は、大規模発電所の停止が多かったので、逆に残った発電所は過負にになり、周波数低状態になったと思う。(私の想像だが)

池島発電所の勤務では、小説が出来るぐらいいろんな事があった。
忘れないうちに書き留めておきたいが、なかなか思うように行かない。
普通の人には、あまり面白く無い話でもある。

恐怖の酢キャベツ

気持ちの良い日差しがベランダを埋め尽くしている。
台所からはキャベツを切る小気味良いまな板の音が響いている。
包丁でまな板を叩いているのは、我が愛妻孝子である。
まな板の上のキャベツは、細く細く刻まれていく。
私も刻まれない様に注意しないといけない、なんてバカなことを考えながら、その音をカウンター越しに聞いている。

今朝は、孝子が先に起きた。私が起きて部屋から出ると
「おはよう、珍しいね」
と孝子が声をかけた。私も
「おはよう」と声を返し、
「明日から仕事少し忙しいから、今日は休憩」と、珍しく孝子より遅く起きた言い訳を付け加えた。
明日から28日の日曜日まで仕事が詰まっている。
孝子が
「もう仕事辞めたら」と言うのを
「仕事辞めたらボケてしまうよ」と勝手なこと言って仕事を続けているのだから、忙しいと言って寝坊しているのも可笑しいのだが、チョット予定を詰めすぎたかな?と少し反省している。

仕事の予定は自分で勝手に決めて、客先との調整は担当の若いお姉さんがやってくれるのだが、追加の仕事を頼まれると、つい引き受けてしまう。
「急に工事が決まり、都合がつかないので、担当違いですが、工事立会お願いできないでしょうか」
なんて若いお姉さんに優しく言われると
「良いよ」と反射的に返事をしてしまう。
要は女性に弱いのである。
歳はとっても、男は男。
老化防止の秘訣は、コレなのかも知れない。

男は男、女は女、この意識がある限り頑張っていけると思う。
でも、最近は、風呂上がりに自分の部屋まで下着を取りに素っ裸で行っている。
以前は孝子の目があるのでバスタオルぐらいは巻いていた。
何時からこうなったのだろう?
孝子の方も私ほどでは無いが、似たりよったりである。
ま、年寄夫婦に成ったという事かな?

あ、話が横道にそれている。
キャベツの千切りの話に戻そう。
千切りのキャベツはタッパに入れられて冷蔵庫の中に。
私の毎朝お決まりの朝食であるパンに、チーズやトマトと一緒に挟まれて、私の胃の中に落ちていく運命である。

以前はキャベツは大半がそうなる運命であったが、最近は孝子の胃にも一部が入って行く。
孝子のダイエットの為だと思うが、キャベツを酢和えして、食べているのだ。
ただの酢和え程度であれば良いのだが、酢に浸けているような感じで、食べている孝子自身、酢に咽て咳き込んだりしている。
全く良くやるよ、である。

食事中咳き込んで
「コロナかな?」なんて言うから
「酢が効きすぎよ」とからかうと、
「健康に良いのよ、アンタも食べる?」
「断る!」
「アンタみたいに持病持ちは特に良いよ」
とくる。

私の食卓に何時この酢キャベツが乗るか、私は恐怖を感じずにはいられない。
酢キャベツなんて人間の食い物では無い。

孝子自身も基本的には野菜嫌いで、昔はキャベツであれ白菜であれ、葉野菜は全て『草』と言っていた。
「こんな鳥の餌食べるか」と豪語していたものである。
あの頃の孝子はどこへ行ったのだろう?

色々と有って

ここ一ヶ月色々と有ってブログが手つかずになっていた。
それでもブログぐらい書く時間は有ったのだが、そこまで頑張る気力もない私である。

私は、最近良く言われる『楽天経済圏』のお世話になっている。
この楽天が最近色々と進化してきて、対応して行くには、私みたいな年寄にはチョットきつい。

私の家のネット環境は楽天ブロードバンドの、モバイルルーターに頼っていたのだが、このモバイルルーターのサービスが、1月末で終了した。
それに伴い、付帯していたメールアドレスも使えなくなった。

幸いメールはニフティーも利用していたので、そちらを使う事にしたのだが、楽天のブロードバンド付帯のメールをメインに使っていたので、年末から関係各所にメールアドレスの変更を連絡するのが大変で有った。

家のネット環境は、モバイルルーターが使えなくなったので、スマホテザリングを使用している。
スマホは、以前にも書いた通り『Rakuten UN−LIMIT V』にしている。
ここは楽天のエリアに入っているので、使い放題だから、モバイルルーターは無くても良い。その分料金の安くなり万々歳だと思っていた。

ところがである、プリンタのスマホでのテザリングのやり方が分らない。
普通だったら、何でもやってみて問題解決するのだが、私が出来ても、孝子だけの時、孝子が自分のパソコンとプリンターが繋げなければ印刷が出来ない。

孝子は、ネット銀行の明細を月一回印刷して、保管している。
いくら電子データが見れても、紙データが無いと安心できない世代である。

そんなわけで、契約切れしたモバイルルーターを印刷するときだけ家庭内LAN用として利用することにした。

wifiルーター機能だけは契約切れでも使えるので、応急手段だ。
ただ、パソコンをスマホのアクセスポイントから、契約切れルーターに切り替えると、ブラウザが立ち上がってルーターの設定アドレスにつながってしまう。
インタネット接続エラーになるためだ。

それを無視して家庭内LANとして使用している。

この契約切れルーター自体をスマホテザリングで使用できれば最高なのだが、世の中そんなに甘くない。

色々と勉強して、最善の解決策を考えて行こうと思っている。
ルーターを新しく契約すれば良いのだが、私はケチである。
こうして考えることも老化防止!

老化防止と言えば、数週間前に楽天市場Bluetoothイヤホンを購入、スマホNHKラジオアプリを入れて英語の勉強を始めた。中学校程度の基礎英語1と基礎英語2 それにラジオ英会話を聞き逃しサービスで聞いている。

聞き流す程度で良いと思っているのでテキストの購入は考えていない。
勉強なんてテキスト揃えて準備万端で構えてやると長続きしないと思っている。

それでも飽き性の私、いつまで続くことやら。
ガン持ちでいつまで生きるか分からなくても、やることはやりたい。
やり残しがないように!
やることが有れば人は生きられると自分勝手に思っている。

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いつまでも私の相棒で‼

人生の終わり方

数日前のモーニングショーで老化について話していた。
あまり真剣に聞いていなかったので正確かどうか疑問だが、一人一人のDNAの働きが鈍って来て、老化していくという話で有ったと思う。
遺伝子組み換え等が出来る現在の技術を持ってすれば、老化の原因であるDNAの働きの鈍化を治療できるはずだ、老化も病気治療のように治すことが出来る時代が来るのではないか。
しかし、人間が不老不死になるのではなく、死の直前まで元気で生活して、身体の自由が利かなくなる時間を極力短くしようと言うお話で有った。
簡単に言うと『ピンピンコロリ』のお話だった。私もそのように人生の最後を迎えたいものだ。

そんなテレビの音声だけを聞き流しながら、私の頭の中は別の妄想をしていた。
私の仕事は電気関係の仕事なので、ついつい電気と結びつけ妄想する癖が有る。良い事か悪い事か分からないけど、私には妄想癖が有るのだ。
この『ピンピンコロリ』の話を聞いて、頭の中で私の車に積んであるサブバッテリーが思い浮かんだ。
私の車は、今流行りの車中泊仕様なので、車のメインのバッテリー以外に、停車中の電気使用が出来るようにサブバッテリーが積んである。勿論
走行充電装置もセットされていいる。
バッテリーには、それぞれの特性が有り、簡単に言うと瞬発力が得意なもの、持久力が得意なもの等と別れている。
サブバッテリーはディープサイクルバッテリーと言われるタイプで、電気が無くなる直前まで全力を出してくれる。
このバッテリーこそ正に『ピンピンコロリ』である。

普通の乾電池などの電池は、ある期間は定格の電圧を出し、その後は徐々に電圧が低下しやがて使えなくなる。
何となく人の一生に似ているように思える。
私の人生も、一応の役目を終え少しずつ電圧が下がり始めた乾電池のようなものだ。
何かに使用している乾電池が使えなくなっても、それより低い電圧でも動く物には使えたりする。
全力は出せなくても良いよと言う電池使用製品が有るのだ。
元々ケチな私は、最後は少しぐらい電圧は低くても動く時計等に入れて、電池の生涯のをまっとうさせている。

私もフルタイムでは働く力が残っていないので、週に二三日程度働いて人生の最後に向かいつつある。
私の現在の持病は肝細胞癌であり、昨年手術で切除したが、必ず再発はある。
それが早いか遅いかは神のみが知る。
その時は又適切な治療をすれば良いのだが、私の最後の時までここ繰り返しだと思っている。
幸い普段は何の自覚症状もなく普通に仕事したりしている。
と言う事は、私は最後の瞬間まで普通に生活や仕事をこなし、生涯の幕を引くことが出来る可能性が残っている。
私も少し電圧は落ちた状態の電池みたいなものだが、この状態を維持したまま『ピンピンコロリ』といきたいものだ。

徐々に電圧が落ち、寝たきりに成るような人生の終わり方はまっぴらだ。
最初に話した車のサブバッテリーは、普通は使えなくなる前に車が走行し再度充電されるので『不老不死』のようなものだが、それでも寿命は来る。
私も蓄電池(バッテリー)のように充電できれば再度若返る事が出来るのに。
正に鈍化したDNAの再生は、バッテリーの充電に等しい。

チョットした話でも、こんな風に私の頭の中で妄想が広がっていく。
愉しくも有り、楽しくも無し。

二日の朝風呂

三が日も過ぎようとしている。朝8時から箱根駅伝を昼の2時過ぎまで見ていた。その後は何のすることもなく、つい先ほどまでお昼寝タイムで有った。
正月も昔とはすっかりさま変わりした。特に今年はコロナのせいで小旅行にも行けないし、初詣も行ってない。元々、神も仏もあまり信じない孝子と私である。正月の初詣やお盆のお墓参りにはあまり意味が無いと思っているのだが、それでも世の中の習慣には時々は従う。
昨日は、スマホに1月2日の思い出として、熱田神宮の初詣の写真が私の了解もなく勝手に表示された。日付は2019年1月2日となっている。そういえば二年前、通勤ラッシュなみに込み合う電車に乗り熱田神宮へ初詣に出かけた事を思い出した。
信仰心の薄い私たちは、どちらかと言うと境内の出店や、周辺の食事処が目的で有ったのだが、何を食べたのか一向に思い出さない。只、大きな特設のさい銭箱に百円玉を前の人の頭越しに放り投げた事は覚えている。
「いくら投げた」孝子が聞くから
「百円」と答えると
「馬鹿だねぇ 百円ぐらいではご利益ないよ」と孝子
「もっとしたのか」と聞くと
「私は10円」と孝子
「神様だって、大勢の人に願い事されて困ってるよ、所詮は神社の金儲け」と付け加えた。
いかにも孝子らしい、自分の親の墓参りの時も手を合わせながら
「父ちゃんロトあててよね」と祈っている。
それでも、食べた事は忘れても、賽銭の事は覚えていた、信仰心が薄くても私はたいしたものである。何時かはご利益が有るはずである。
只、この歳になるとご利益よりも私の命の灯が消えるのが先になる可能性も有る。

そんな事を考えながら時計の針をもっともっと巻き戻してみた。
私が子供のころ、長崎の炭鉱の島に住んでいたのだが、そこでの正月を薄れかけた記憶で断片的に思い出した。
土地土地で風習は違うが、正月二日は朝風呂に入る風習が有った。
炭鉱の島には、自宅には風呂が無かった。自宅と言っても炭鉱の社宅である。
共同浴場が、二箇所あり、近くに浴場に洗面用具や着替えをもって通っていた。炭鉱の施設で有るので、一般の銭湯のように金は取らない。
私が利用していた浴場は、公園の一角に有り入り口が男湯と女湯に分かれていて、かなり大きな平屋建てで有った事を覚えている。
もう一カ所の浴場は8階建ての社宅の一階に広い浴場が作られていた。

記憶が定かでは無いのだが、夕方4時ぐらいから8時ぐらいまでが利用可能時間だったと思う。普通に言う営業時間のようなものである。
更衣室は何段かの木製の棚を正方形になるように仕切り板をつけたもので、今の日帰り温泉のコインロッカーの扉が無いよう状態を想像してもらうと分かりやすいかも知れない。
扉が無くても貴重品などを持ってくる人もいないし、みんな顔見知り、盗難の被害など無かった。
浴室は、洗い場と大きなコンクリート造りの浴槽が一つと、その半分ぐらいの浴槽が有った。小さい方の浴槽は塩湯で、海水を使用していた。
湯を沸かすのは、蒸気で、蒸気のパイプが湯船の中に直接入っていた。パイプ周辺は火傷しないように囲いがあり、パイプには竹の覆いが取り付けられていて、誤って触っても火傷する事は無かった。
湯加減は、利用者が上記パイプのバルブと、蒸気パイプと並んでいた水パイプのバルブを開け閉めして調整していた。
何人もの人が利用するので、熱い湯が好きな人がバルブ調整すると、他の人が入れないぐらい熱くすることも有ったが、そこは皆顔見知り、
「もう少し蒸気絞ってよ」と声をかけていた。
「俺ちょうど良いけど、熱いか?」
「当たり前だ、皆熱いよ」等と会話し、
「お前、よく耐えられるな」と皆で大笑いし、和気あいあいの雰囲気であった。

そんな共同浴場が正月の二日のは、午前中のみ開いていた。
元旦は風呂に入らない、二日は朝風呂と言うのがこの地方の決まり事であった。
そんな訳で、共同浴場も正月の休み期間も、二日の午前中は利用する事が出来た。風呂ギライな人もこの日は風呂に入りに来て、利用時間も平日の夕方より短かったので、大賑わいで裸の年始挨拶が共同浴場の中で行われていたことを、子供心に覚えている。
孝子にこの話をすると、孝子の田舎徳島には二日の朝風呂の風習は無かったようだ。

この共同浴場が有った公園だが、年末には餅つきの業者が来ていた。
狭い社宅では正月用の餅つきは出来ない。各家庭では、もち米を公園に来ているこの業者に持っていて餅つきを依頼していたと記憶している。
公園の餅つき業者の一角では、もち米を蒸す蒸気の湯気が立ち上り、餅つき機の機械音が響いていて、正月が近いのを実感していた。
木ねと臼で餅つきをするこの時代、餅つきの機械は珍しかったが、どのような物だったかよく思い出せない。
大きな輪っかにベルトが掛かって回転しているようだったが、動力源は思い出せない。
今、考えるとあの音からして発動機のような物だったのかも。
回転運動を往復運動に変えて、餅つきをしていたのかもと勝手に想像している。
そして運動会で使うテントと同じようなテントの中では、『もろぶた』と呼ばれていた木の箱に流し込んだ餅を、おばちゃんたちが、ちぎって丸めていた。
今思えば、この光景が正月前の風物詩だったのかもしれない。

そんな訳で、私は今でも正月二日は風呂に入る。さすがに朝風呂とはいかないが、昨日は午後3時頃には風呂に入った。
あの頃に比べ、今は各家庭に風呂が有り、便利で快適な生活が出来るようになったが、このコロナ禍で「ステイホーム」「お家で静かにお正月」と言われても、そのホームすら失った人たちがいる。
小池東京都知事が「5つの小」の付け足しみたいに言っていた、医療関係者に対する「心配り」。
医療関係者はもとより周りの人への「心配り」こそ一番大切だと私は思っている。決して付け足しではない。
心配りが有れば誰に言われなくてもマスクもするし、生活に困っている人にも気づかいをする。
コロナとの共存とは、誰も正解が出せないが、一人一人の心の気遣い、心配りに有るのではないだろうか。

年の瀬の日々

朝6時過ぎ、私の部屋のドアが開き、
「おはよう」とベットの中の私に孝子が声をかける。
「おはよう、行くの?」とまだ目も開ききらない私は返事をする。
「うん、行ってくる」と孝子
「頑張るねぇ」
「へい」と声を残し孝子は朝のラジオ体操とスロージョギングに出かけた。

私は、その返事を遠くで聞きながら、又夢の世界に落ちていった。
この二度寝が気持ちいいのである。
孝子が帰ってくるまでの短い時間だが、何時間もの睡眠に匹敵する。

孝子が帰ってくる少し前に目覚めて、モバイルルーターをオンにする。
朝の始まりである。
孝子は毎朝欠かすこと無くラジオ体操とスロージョギングに出かける。
私は今朝のようにサボる事が多くなった。
「今度は本気」とダイエットを始めた時に孝子が宣言したが、朝の冷え込みが厳しくなった今も頑張っている。
本当に本気の様だ。
あの宣言した言葉には嘘はなかった。
どこかの国の政治家も見習ってほしいものだ。
孝子の場合、これから大きい障害物が待ち構えている。
言わずとしれた『正月』だ。
正月用にネットでカニやら肉やら、やたら注文しまくっている。
そのご馳走、誰の胃の中に落ちていくのだろう。

朝食が終わり、やっと私の部屋のカーテンを開けた。
今年初めて窓に結露が有る。
「雑巾ある」と孝子に聞く
「ベランダに干して有るよ」
孝子が行った通り、白いタオルのお古がベランダに有った。
それで窓の結露を拭く、窓枠のアルミサッシの方がガラスより結露が多い。
白い古ダオルは直ぐに真っ黒になった。

「タオル、ここで洗って良い」と台所に戻った私が孝子に聞く
「だめ、そっち」と孝子が指さす。
台所の勝手口の外のバルコニーの方向だ。
「外でかい?」と私が言うと
「主婦はそうよ、寒いなんて言っとれないの」
私は、仕方なく台所でバケツにお湯を汲み、台所の外の狭いサービスバルコニーで古ダオルを洗った。

孝子は洗濯を始めようとしていたが、
「パジャマ冬は2日に一回も洗濯いらないか」と私に聞く
「汗もかかないし、そんなに洗濯しなくても良いよ」と私
「そうねぇ」
「風呂だって冬場は2日に一回じゃない」
と私は同意した。

パジャマ以外の洗濯物を洗濯機に入れ運転のスイッチを入れた孝子は
「農協へ行ってくる」と出ていった。
昨日卵を買おうと近くの行きつけのJAの直販所に行ったら、卵が売り切れていたそうで、今日は早めに買いに行ったのだ。
クリスマスで、卵の需要が多かったのだと思う。

先にかいた通り、何年も我が家は冬場は2日に一回しか風呂に入らない。
孝子を私は、臭い仲なのである。

私の仕事納めは、24日であった。
昨日は12月の月報をまとめて会社に送った。
もう大した用事もない。
少しだけ気ぜわしい年の瀬の日々を孝子と二人で過ごす事になる。